[プロデューサー:小田泰之/編集・構成・演出:Team XXX、向悠一(「影が行く」)/音楽・音響効果:ボン/編集・MAスタジオ:スタジオミック/製作:アムモ98/2016年12月2日リリース]
告白の相手
心霊ビデオでは、当然ながら“この世ならざるモノ”が映りこむ映像が紹介される。本作もその例にもれない。その異様な〈いでたち〉は、観る者に恐怖を与えるのもたしかだ。
しかし、それより恐ろしい現象が本作では発生している。
それは、投稿者の友人のふるまい、つまり“あの世のモノ”ではなく、生きた人間の挙動だ。
本来、“あちら側の人間”と“こちら側の人間”は異質の存在のはず。お互いに相いれない。だが、両者が同居してしまった。
つまり、単純に「恐ろしいモノが現われた」「それは怖いねえ」と高をくくってはいられない。
本作に現われる異形は、姿を見せるだけでなく、生きた人間の心に入りこむ力を持っていることになるからだ。
実話怪談本に載っていた話
本作の核心となる怪現象よりも、現場のまわりの状況に着目したい。
場所は居酒屋。怪現象が起こるような雰囲気ではない。たとえ起こったとしても喧騒にかき消されてしまい、怖さは半減するはず——と最初は思うのだが、実際に目の当たりにすると、まわりの能天気な明るさが“光”となって、怪異の“影”をより強めてしまう。
まわりの騒がしさに恐怖が半減するどころか、恐怖によって喧騒のほうがかき消されてしまうのだ。
「怖いから」と、部屋の灯をつけて本作を観る人もいるかもしれない。だが、それは意味がない。むしろ“闇”の深さを強調するだけの結果に終わる。
紙幣の番号
心霊ビデオとして紹介される怪現象の多くは、おしなべて突発的に日常に闖入してくる不条理だ。たいていは理由がわからない。そこに恐怖がある。
ところが、本作の投稿映像がとらえたのは、“因果関係”のわかる現象。つまり、「○○をしたから△△が起こった」と説明できる。「予想どおり」「案の定」といった修飾語がつけられる出来事なのだ。
ただ一方で、「なぜ○○をすると△△が起こるのか?」という根本的な理由まではつかめない。
そこにやはり不条理が存在しているわけだが、どんどん突きつめていくと、怪異の深遠に入りこんでしまう気がして、より恐怖も強くなっていく。
影が行く
複数のカメラによって心霊現象の真実が、またひとつあきらかになった。しかも本作のそれはとてつもなく問題が大きい。
心霊ビデオは、そこで起こったありのままの様子を映しているわけではない。本作はそんな真実を浮き彫りにする。撮影者が異なれば、その現象はまたちがった見えかたになるのだ。
となると、怪異はレンズの向こう側ではなくこちら側、すなわち撮影者自身に起こっている、と考えることもできる。
これは大問題だ。
これまで観てきた数々の心霊ビデオを、もういちど検証しなおす必要がある。
そもそもそんな時間はないが、検証作業によって別の恐怖が生まれのではないか。そんな予感めいたものに心は落ちつかない。
家族の食卓
いわゆる心霊ビデオに記録されるような怪現象は実際に「存在」しているのか? という大テーマがある。ただのかんちがいとか、そのように見えるだけで合理的な説明がつけられるケースもたくさんあるにちがいない。
では、本作の投稿映像で確認できる現象は「存在」しているのか? そもそも「存在」とはなにかという哲学的な問いが現われ、それに答えるのは一筋縄ではいかない。
たしかに、映像には記録されている。では、投稿者がその場にいなかったら、〈それ〉は起こっていたのか?
かりに起こっていなかったとする。となると、“あの世のモノたち”は投稿者になんらかの邪心を抱いており、投稿者に狙いを定めることであのような映像が撮れたことになる。そう考えると恐ろしい。
逆に、投稿者の行動とは無関係に現象は起こっていたとする。それはそれで、だれも顧みないアパートの一室で、人知れず淡々と怪現象が進行していたことになる。そう考えると、うすら寒いものを感じる。
死に際のアッコさん
本作の投稿映像は、それほど怖くない。少なくとも心霊ビデオの類いを永く観ている者には。
本作の肝は、そのような映像が撮られてしまった“理由”らしきものが語られる部分にある。怪現象になんらかの“理由”がつけられるところが興味深い。
しかし、“理由”がわかったからと安心していいのだろうか? 自分が恐怖から目をそらしたい一心で、自分を無理にでも納得させようとしてはいないか。
ほんとうの“理由”を追究することが放棄され、そこに深い“闇”が生まれてしまうのではないか。だれも気がつかないうちに。
この記事へのコメントはありません。