「この心霊映像はホンモノなのか? それともニセモノ?」。本シリーズを観る者が、作品を鑑賞しながら、つねに気になる疑問だろう。
「本シリーズはすべて作りもの」と考える当ブログにとっては、心霊映像が真実かどうかよりも、「ホンモノらしさ」「もっともらしさ」のほうが重要だ。たとえフェイクであっても、「ホンモノらしさ」があれば恐怖を感じるし楽しめるからだ。
だが、残念ながら、それぞれの作品のレビューでも述べたとおり、ほとんどの作品には「ニセモノっぽさ」が漂っている。
なぜニセモノっぽく見えるのか。ここでは、その原因を検討し、いくつかのパターンに分類してみた。
ただし、注意してほしいのは、これから述べる特徴を持つ作品が必ずしも駄作というわけではない点だ。「最恐映像42選」にラインナップされている良作・傑作のなかにも、これらのパターンにあてはまるものがいくつもある。その作品から得られる恐怖が「ニセモノっぽさ」を上回っているなら、評価に値するのだ。
「この作品はなんかイマイチだな」と感じたとき、その理由を追求すると、これらのパターンにあてはまる場合が多いというわけだ。
そんなふうに作品鑑賞の参考にしてもらえれば幸いだ。
現われることがわかっていた!?〈出現域制御〉
心霊映像のなかには、〈霊〉とおぼしき存在の現われる場所がさりげなく〈制御〉されているものがある。
たとえば、カメラの前に被写体の人物がおり、その人物が動くと背後に〈霊〉が立っている、といったケース。〈霊〉の出現する場所が最初から、あるいは現われる直前に人やもので隠されており、その人やものが動き出現場所が露わになると、そこに〈霊〉が現われる。そんなパターンの映像も多いのだ。
このパターンのバリエーションとして、被写体ではなくカメラのほうが動く場合もある。カメラが動くことで隠されていた出現場所が見えるようになり、そこに〈霊〉が現われるのだ。
このパターンの映像は、漫然と観ていると、とくにニセモノっぽさは感じないかもしれない。だが、自分が心霊現象の起こっている現場に居合わせた場合を想像してほしい。
〈霊〉の出現場所が人やもので隠れていたとしても、それはあくまでカメラを通して見た場合だ。カメラから離れた場所にいる人から見れば、〈霊〉の出現場所は隠れていない。もしその人が〈霊〉の姿を見られる“霊感”を持っていたら、〈霊〉は映像とは異なるふるまいをするはずだ。
人の背後に立っているとおぼしい〈霊〉が、その人がわずかに動いた隙にカメラにとらえられる。そんな映像を実現するためには、〈霊〉がカメラのフレームを十分に理解したうえで、数センチ単位でカラダを動かす必要があるる。そんな繊細なふるまいは、長年トレーニングを重ねたベテランの俳優でもなければ無理な芸当だろう。
〈霊〉と呼ばれる存在にそんな真似ができるのか。いや、そもそもなぜそんな手のこんだことをしなければならないのか。
心霊映像としての見栄え。それ以外の理由が思いうかばない。
だから、〈霊〉の出現場所が制御される映像はニセモノが疑われるのである。
カメラから見た場合、〈霊〉がどのように出現するか見てみよう。まず、被写体となる人が映っているが、〈霊〉はまだ現われていない。
人が動き、〈霊〉の出現する予定の場所(出現域)が見えなくなる。
さらに人が動くと、そこに〈霊〉が現われる。
再び人が動き、〈霊〉の姿が見えなくなる。
さらに人が動いて〈霊〉のいた場所が見えるようになるが、その姿は消えている。
では、〈霊〉としては、以上のような映像を実現するために。どう行動すればいいだろう? この点を考察してみよう。まず、人の動きを確認しながら、みずからの出現する場所を見極める。
みずからが出現する場所が人によって隠されていることを確認したら、出現の準備を開始。
引きつづき人の動きに注意しながら、慎重に姿を現わす。位置とタイミングがわずかでもズレれば、カメラに映ってしまうので、細心の注意を払う必要がある。
人が動き、自分の姿がカメラに映る。この段階でも気は抜かず、今度は消える準備を整える。
さらに人が動き、自分の姿がカメラから見えなくなったら、消える行動を開始する。出現した際と同様に、位置とタイミングの確認に全力を尽くす。
〈出現域〉が隠されている間に、姿を消す。早すぎても遅すぎても、すべてが水泡と化す。
人が動き、カメラでもみずからの姿が消えたことが確認できれば、ひと安心。これで“心霊映像”が完成する。
合成だからそうなる!?〈異形像微動〉
心霊映像において、〈霊〉とおぼしき存在をよく見ると、小刻みに動いていることがある。撮影時にカメラが大きく揺れた(ブレた)映像に、そんな“微動する霊”が現われることが多い。
ふつうカメラが揺れると、画面では被写体が動いて見える。もし、その場に〈霊〉の類が居合わせたとしたら、(被写体とおなじように)カメラのブレに合わせて動くはずだ。
ところが、実際は“微動する霊”はカメラのブレに合わせて動くわけではない。〈霊〉はカメラのブレとは関係なく微動しているのだ。
ホンモノの〈霊〉は、じつは微動している——とでも言うのだろうか?
“微動する霊”が出現するのは、おもにシリーズ初期の作品だ。最近の〈霊〉はほぼ微動していない。これは「初期の〈霊〉はホンモノで、最近のはニセモノ(だから微動していない)」と考えるべきか。それとも……。
次のように考えるほうが合理的では?
なぜ〈霊〉はそんな奇妙な動きをするのか。その〈霊〉は映像の撮影された場所にいたのではなく、あとから合成されたから——そんな邪推が成りたつ。
実際は映像に〈霊〉など映っていないのに、あたかも〈霊〉が出現したように見せるには、人物の背後に〈霊〉を合成しなければならない。そして、カメラが大きく動いているのなら、カメラの動きに合わせて〈霊〉も位置を変えながら合成していく必要がある。
シリーズ初期は、おそらく手作業で〈霊〉を合成していたはずだ。しかし、カメラのブレと〈霊〉の動きを完全に一致させるのは至難のワザだ。ほんのわずかにズレただけで、完成した映像ではズレの連続が〈微動〉として表現されてしまう。
一方で、最近の画像編集・加工ソフトには、カメラのブレを追跡する機能がある。〈霊〉を微動させずに合成することができるのだ。
作品の作られた時期によって〈霊〉が微動したりしなかったりするのは、合成技術の発達の度合いによるため。そう考えられる。
いずれにしても、〈霊〉は合成されたと考えるべきなのだ。
人のうしろに〈霊〉が立っている映像があるとする。
カメラが動くと、映っている人の位置が変わる。本来ならば〈霊〉も人とおなじように位置が変わるはずである。
しかし、カメラが激しくブレたりすると、正確な位置に〈霊〉を合成できない場合がある。これを映像で見ると、わずかなズレが〈霊〉の微動として表現されてしまうのだ。
そこにはいなかった!?〈平面像密着〉
上の〈異形像微動〉とは対照的に、〈平面像密着〉はまったく動かない〈霊〉だ。
人物のうしろに〈霊〉とおぼしき存在が立っている。じっとしたまま微動だにしない。それどころか、〈霊〉には厚みがない。前の人物にぴったり張りついているように見える。
いくら〈霊〉があの世の存在で、まったく動かずに立っていたとしても、この世に現われ映像にとらえられたなら、わずかな揺らぎ、微妙な変化があるはずだ。三次元の世界に現われたのなら、まったく厚みがないのも不合理だ。
合成。またしても、この不合理さは「合成」でないと説明がつかない。
ホンモノの〈霊〉とは、この世ではまるで静止画のように見える——とでも言うのだろうか?
そんな強弁は、そろそろ苦しくなってくる。〈異形像微動〉の場合と同様に、近年の作品では、動き厚みも感じられ、実在感を持つ〈霊〉が現われる。これも合成技術の発達によるものだろう。
〈霊〉の性質が技術に左右される理由はないはずだ、もしホンモノならば。
〈平面像密着〉の心霊現象はニセモノと疑われてもしかたがないのである。
〈霊〉が人の真うしろに立っているとする。
下のように別のアングルからは〈霊〉の横が見られるはずである。
ところが、実際の心霊映像では、まったくの厚みのない平面的な像が人のうしろに張りついているように見えるのだ。
サイズがおかしい!?〈過剰規模像〉
壁一面に現われる不気味な顔。道路いっぱいに浮かぶ苦しげな表情……。〈過剰規模像〉は、ヒトのモノとは思えぬほど大きい〈霊〉の姿だ。
〈霊〉とは、死んだ者の魂の姿だというなら、その大きさは人間とほぼおなじであるはずだ。部屋の壁一面が顔だけで埋まるなど、どれだけ巨大な〈霊〉なのか。
ホンモノの〈霊〉は、みずからの大きさを自由に変えられる——とでも言うのだろうか?
もしそれが真実ならば、もっとさまざまなサイズの〈霊〉が映像に記録されてもいいはず。実際は、ほとんどの〈霊〉が人間とほぼおなじ大きさで現われる。
かりにホンモノの〈霊〉が実在するとしたら、おそらく生きた人間とおなじ大きさだろう。極端にサイズが大きいモノはニセモノの可能性が高いわけだ。
人とくらべて、極端に大きさの異なる〈霊〉が出現する場合がある。
どうやって見つけたの!?〈刹那像〉
花火が打ちあがり閃光のなかに見える異形。カメラのフラッシュが瞬いた瞬間に姿を現わすあの世のモノ。その姿は一瞬にして消えうせる。
〈刹那像〉は、一秒にも満たないほんのわずかな刹那にだけ映像に映し出された〈霊〉だ。本シリーズにしばしば登場するが、2つの点で理に合わない。
まず、なぜそんなわずかな間だけ映像に記録されたのか。それも花火やフラッシュが光った絶妙なタイミングを狙って……。
そもそも心霊現象はきわめて稀な出来事だ。だれもが日常的に目撃できる現象ではない。たまたま映像に記録される確率は、奇跡といっても過言ではないほど低いものだろう。ましてや、花火やフラッシュと同時に現われたとして、その瞬間にカメラが向けられている確率は、ほぼゼロといっていい。
そんなレアなケースが都合よく起こっては困るのだ。
2つめの不合理は、刹那的な〈霊〉の存在をどうやって発見したのか、ということだ。
作品では、〈霊〉の出現がスローモーションや静止画で紹介される。なるほど、そこに〈霊〉が現われることを知っていれば、映像を停止することで見つけられるだろう。あくまで「知っていれば」だ。
心霊スポットで心霊映像を撮ろうとしたのならともかく、撮影した映像に〈霊〉が映りこんでいるなど、ふつうは想定の範囲外。想像だにしない。
〈刹那像〉もやはり合成——。これがもっとも合理的な解釈ではなかろうか。
映像の1フレームにだけ記録された〈霊〉。これを偶然に発見するのはほぼ不可能である。
死んでいない!?〈非霊生者〉
〈非霊生者〉とは、〈霊〉らしさがなく、「生きている人間」のように見えるモノである。
ここで原点に立ちかえって考えてみる。
心霊映像に映りこむ〈霊〉の正体は何なのか? 死んだ者があの世に行ったあとの姿なのか、それとも人智を超えたモノノ怪の類か……。何万年かかろうと、答えの出せない疑問といえる。
では、次のような問いかけはどうか。「〈霊〉は少なくとも何ではないのか?」
これに回答するのは簡単だ。「〈霊〉は少なくとも生きている人間ではない」。映りこんだのが「生きている人間」なら、心霊現象とは言わないからだ。
しかし――。
本シリーズで紹介される心霊映像で、〈霊〉の類だと紹介されるもののなかには、正体が「生きている人間」ではないかと疑われるケースがある。
つまり「生きている人間」のふるまいを映像に合成し、不可解なモノとして紹介しているのではないか。そう邪推できる作品があるのだ。
では、〈霊〉の類と「生きている人間」はどう見分けるのか? そもそも〈霊〉の実態が不明なのだから、正確に見分けることなど不可能だ。
ただ、ホンモノの〈霊〉であれば、およそ「生きている人間」とは思えない感じを受けるのではないか。
「生きている人間」が〈霊〉を演じているような心霊映像には、ニセモノっぽさが漂っているわけだ。
生きている人間が〈霊〉を演じているように見える場合がある。
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