フェイク・ドキュメンタリーの傑作〈コワすぎ!〉シリーズが、〈超コワすぎ!〉として再始動。現在までに2作が制作されている。
いったいどのあたりが「超」になったというのか。前シリーズとの違いを分析しながら、新作の魅力を探っていこう。
『FILE-01 コックリさん』でまた怖くなった
まずは、新シリーズ第1作目から観ていこう。
ホラーの初心に返った
前シリーズの終盤は、観る者はもちろん、制作陣すら予想しなかった方向へ進み、まさに行くつくところへ行ってしまった。
しかし、この新シリーズの第1作目に登場するのは〈コックリさん〉。都市伝説やオカルトの題材としてポピュラーなもののひとつだ。前シリーズも当初は〈口裂け女〉や〈河童〉などを扱っていたわけだから、初心に返ったと考えることができる。
では、「初心に返った」ことで、どんな良いことがあるだろう? この点を考えたい。
そもそも〈コックリさん〉の話と聞いて、どんなストーリー展開を想像するだろうか?
いわゆる儀式としての〈コックリさん〉には、さまざまなタブーがある。それを破ることで、恐ろしいことが起こる──とされている。
ということは、誰かが〈コックリさん〉を行ない、やってはいけない過ちを犯してしまい、恐怖に襲われる──。この『FILE-01 コックリさん』は、そんな話ではないかと観る前から予想がつけられる。むしろ、そういう話でなければ、観る者の期待を裏切ることになる(たとえば「何事もなく儀式をやり遂げました」で終わってしまったら面白くない)。
つまり、〈コックリさん〉を題材にするホラーなら、誰もが知っている“お約束”を守る必要があるわけだ。
ただし、これは本作にとって、厄介な“足枷”だ。前シリーズ〈コワすぎ!〉は、予想のつかない方向に話が進んでいくのが特徴だった。観る者の“読み”どおりに物語が展開するならば、前シリーズが持っていた魅力のひとつが失われることになる。
とはいうものの──。
じつは、前シリーズには、ただひとつの欠点があった。当サイトのレビューから引用しよう。
本作で残念な点がひとつだけある。
それは、〈コワすぎ!〉シリーズでありながら、肝心の「怖さ」が犠牲になってしまったことだ。
このシリーズが最初からたいして怖くなければ、気にならなかった。しかし、じつは『口裂け女』『河童』などは、けっこう本格的な恐怖を与えてくれていたのだ。
新シリーズでは、原点に戻り、「コワすぎ!」と身を震わせる作品になることを期待している。
前シリーズは、ストーリー展開の面白さを重視した結果、良くも悪くも、怖くなくなってしまったわけだ。
しかしながら、本作は、前シリーズの『口裂け女』『河童』あたりの恐怖度を再現している。つまり、怖い。それは、前述の“お約束”を守っているからだ(ただし、そこは白石監督らしく、ちょっとしたひねりは加えてある)。
ようするに、怪談とかバケモノとかオカルトを扱った作品は、あるていど定型やフォーマットにのっとったほうがよい。そのほうが恐怖度が増す、ということが本作からわかる。
上記のレビューで期待したとおり、本作は「原点に戻」ってくれた。なおかつ、「身を震わせる作品にな」っていた。
これこそが「初心に返った」ことで得られる本作の魅力というわけだ。
工藤が“バカ”になった←【ココが超!】
ただ、それだけでは「超」とまでは言えないだろう。そこで、本作の主役(?)のディレクター・工藤に注目してみる。
この〈超コワすぎ!〉は、前シリーズのパラレルワールドという設定だ。ディレクターの工藤、アシスタント・ディレクターの市川、カメラマンの田代は、前シリーズから続投しているが、別人ということになっている。
それでも、工藤はあいかわらず暴力的だ。前シリーズのレビューでは、この工藤の性格が、怪異に立ち向かう際に功を奏し、バケモノを撃退するのに一役買っている、と述べた。
また、暴力的なふるまいは、心の弱さの表われでもある(たとえば、本当に危険な場所には自分は行かず、市川を向かわせている)。
前シリーズと、この〈超コワすぎ!〉の工藤を比べた場合、後者には「心の弱さ」がないように思える。単に乱暴な男になっているのだ。暴力的な人間から心の弱さがなくなったら、ただのバカだ(もちろん、愛すべきバカである)。
襲いかかる恐怖にも、持ち前の腕っ節で果敢に立ち向かっていく──というとカッコイイが、目の前の危険に気づかないだけ。バカだからだ。
だが、バケモノの目からこういう男を見たらどうだろう? どんなに恐ろしい目に遭わせてもまったく怖がらない。命が脅かされていることを理解しない。それどころか反撃してくる。
これでは、どんなバケモノも立つ瀬がない。
そう。じつは、これこそが、新シリーズの見どころであり、「超」の部分なのだ。
『FILE-02 蛇女』で前シリーズを超えた
『FILE-01』で、「初心に返った」はずの新シリーズ。2作目にして、早くも規定の路線から外れようとする気配が漂う。
バケモノだから悪いのか?
『FILE-02 蛇女』は、初っぱなから『FILE-01』や前シリーズとは異なる様子を見せる。いきなり投稿映像が映し出され(これまでは、工藤たちの前置きがあってから投稿映像が紹介されていた)、それが長々と続く。なんと『FILE-02』の半分はこの投稿映像で構成されているのだ。
投稿者は無職の中高年男性。野山で偶然に美少女と出会い、男は少女を追いかける。その一部始終が映像におさめられている。
中年男の屈折した恋物語──といえば聞こえはいいが、やっていることはストーカー。犯罪スレスレだ(いや、グレーではなく黒である)。
ややネタバレになるが、相手の美少女は、じつは〈蛇女〉だ。つまりバケモノ。
この場合、男と少女、どちらがわれわれにとって忌むべき存在なのか?
少女(とその母親)は、バケモノではあるが、社会に迷惑をかけているわけではない。見た目はふつうの人間で、もちろんコミュニケーションをとることもできる。それどころか、少女には投稿者の男を気遣うような言動すら見られる。
一方、男は“犯罪者”。
本作を観る者は、いったいどちらを批判すべきなのか。それがわからなくなってくる。いや、どう考えても、悪いのは男のほうだ。その心情は理解できるにしても……。
工藤たちも“バケモノ”←【ココが超!】
さて、工藤たちが登場するのは、物語の半ばだ。そして、工藤たちの存在は、問題をさらにややこしくする。
工藤の傍若無人なふるまい、粗暴な言動は、相手が無法者であるからこそ、正当化されるはずだった。
前作のレビューから引用しよう。
観ている者は、いつしかこの凶暴さに頼もしさを感じはじめてしまう。というのは、怪奇現象とは、われわれの世界に暴力的に侵入してくる不条理だからだ。目には目を。不条理には不条理を。
殴られるほうはたまったものではないが、しかし、霊能力を持っているわけでもない工藤のやり方が実際に効果を上げている。
本作の〈蛇女〉は、われわれの世界に暴力的に侵入してきているわけではない。むしろ、他人の平穏を壊わしているのは工藤たちのほうだ。敵は“やられたからやり返した”に過ぎないのだ。
つまり、本作では〈蛇女〉と工藤たちは同じステージに立っている。ようするに、どちらもわれわれにとっては“バケモノ”なのだ。
これまでの作品では、観る者は〈口裂け女〉〈河童〉〈トイレの花子さん〉〈お岩さん〉〈コックリさん〉といった異界のモノたちが何を仕掛けてくるか、どんな恐怖をもたらすか、そこに注目していればよかった。
工藤たちも“バケモノ”となると、工藤たちこそ何をしでかすかわからない。そんな不安がわいてくる。もともと常軌を逸した行動をしてはいた。けれど、だからこそ、怪異に立ち向かってくれる頼もしさを彼らに感じていたのだ。
本作では、工藤たちこそ、われわれに「どんな恐怖をもたらすか」。その点に注意を払わなければならない。
まさに〈コワすぎ!〉を超える〈コワすぎ!〉。すなわち〈超コワすぎ!〉というわけだ。
©2015ニューセレクト
この記事へのコメントはありません。