不覚だった。YouTubeにこんな優れた心霊ホラー作品が存在していたとは、まったくの盲点。一方で、遅ればせながらも、この〈フェイクドキュメンタリーQ〉シリーズに出合えたのは僥倖だった。〈心霊ドキュメンタリー〉の愛好家である私の感情をここまで揺さぶる本シリーズ。その魅力はどこにあるのか? 簡単に分析してみよう。
〈フェイクドキュメンタリーQ〉のメインディッシュは〈穴〉
〈フェイクドキュメンタリーQ〉シリーズの魅力を読み解くポイントは2つある。
まずは、それぞれの映像に意図的に〈穴〉が空けられている点。「心霊現象らしき怪異を映した映像」の体裁をとっているが、いわくや背景はほとんど語られない。つまり、謎を残したまま作品は完結してしまう。
ほかの〈心霊ドキュメンタリー〉作品でも、あえてすべてを語らず〈穴〉を残す演出をほどこしているものがある。ただし、あくまで怪現象が“主”で穴は“従”だ。一方、本シリーズは怪現象のほうが“従”で、むしろ穴が“主”。この着眼点は秀逸だ。「そんな手がまだ残っていたのか」と、思わずうなってしまう。
そして、〈穴〉の空けかたも注目に値する。穴が小さすぎれば「ああ、こういうことね」と観ている側がすぐに埋めてしまうし、大きすぎれば「わけがわからない」と穴の存在にすら気づかない。情報を出しすぎず隠しすぎない。その塩梅はお見事。観ている者は作品に空けられた穴を埋めようと想像力を働かせ、気づくとみずからのココロに“闇”を生み出している。
本シリーズの怪異は、それほど怖くない。類型的ともいえる。しかし、ココロに広がる“闇”のほうに観る者は真に恐怖することになるのだ。
〈フェイクドキュメンタリーQ〉が真実味を持つ場所
前述のとおり、〈フェイクドキュメンタリーQ〉シリーズの怪異はたいしたことがない。だが、異様なまでに〈真実味〉を帯びている。昔のビデオカメラで撮られたような映像も、ほんとうにその時代につくられたものと錯覚する。いや、観ている最中は錯覚していることすら自覚しない。映像に映るヒトやモノがあまりに自然だからだ。優れたつくりものほど、「よくできているな」とは思わせない。あとから振りかえってはじめて異常なつくりこみに気づかされるのだ。
怪現象はたいしたことなくても、作品が持つ〈真実味〉によって、怪異もまた〈真実味〉を帯びてくる。むしろ現象が地味だからこそ、ホンモノらしさがある。これが本シリーズの持つ2つめの魅力だ。
タイトルのとおり、本シリーズは「フェイク」つまりフィクションであることをうたっている。ほかの〈心霊ドキュメンタリー〉は建前ではノンフィクションなので、映像に少しばかりわざとらしさや不自然さがあっても、観る者がココロのなかで補完し、いわば作り手との共同作業で〈真実味〉を持たせる。
それに対し本シリーズは、最初からつくりものだとわかっているから、観る者は補完しない。にもかかわらず、ホンモノらしさがある。作品に〈真実味〉を与えるハードルの高さは、ほかの〈心霊ドキュメンタリー〉の比ではないはずだが、あっさりとそのハードルを飛びこえている。
この恐るべき創作力は敬意に値する。
〈フェイクドキュメンタリーQ〉の嗜みかた
〈フェイクドキュメンタリーQ〉シリーズの魅力を堪能するなら、作り手によって意図的に空けられた〈穴〉を観る者が見つけ、穴を埋めるため想像力を働かせることだ。ただし、穴はどんなことをしても埋まらない。正解が出せないように制作されているからだ。観る者がどんな結論を出したとしても、それはその人にとっての“正解”となる。
では、私は〈穴〉についてどう考えているか。少しネタバレを含ませながらも語ってみたい。
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