[監修:鬼塚リュウジン/音楽・音響効果:荒井佑/2020年5月2日リリース]
- 「佐々木(仮)」◆◆◆
- 「四角い跡」◆◆◆◆
- 「ヨリシロ」◆◆◆◆
- 「くりかえ死」◆◆◆◆
『46』は前パートと比べると、ややパワーダウンしている印象を受けた。各エピソードの評価を表わす「◆」の数も減らしている。しかし、以下に述べる理由から、けっして悲観すべきことではない。
まず、『45』の出来栄えがあまりに良すぎた。観る者のハードルは上がっている。どのようなつくりであっても、多かれ少なかれ不満は残る。だが、シリーズ全体を見渡せば、『46』も及第点以上のクォリティは保たれている。
また、例外はあるものの、『46』におさめられたエピソードは、いずれも廃墟などの「心霊スポット」を舞台にしている。心霊・怪現象を記録したビデオシリーズとしては、何万回とくりかえされたシチュエーション。どうしても既視感は拭えない。
逆に考えれば、盤石・王道の恐怖を味わえるともいえる。小手先のごまかしが利かないぶん、制作陣の力量が問われる。実際、『46』の各エピソードは、なにも起こらない場面でも緊迫感が漂う。手堅いつくりなのはまちがいない。
そして、多くの人が気づかない、ことによると制作陣さえも意識していなかった点に当ブログは注目した。そこに「パワーダウン」と思ってしまう原因がある。では、『46』のどこに注目したのか?
これまで本シリーズの真価が発揮されてきたのは、クライマックスの“派手”で“えげつない”シーンだ。『封印映像』初心者はそこに目を向けるだろう。
ところが、シリーズを見慣れている者は、『46』はむしろ“前置き”とか“前座”の現象に手抜かりがない。その点に注目する。“前置き”は、当然ながら地味でさりげなく演出されている。漫然と観ていると、目立たないし印象にも残らない。だから、「パワーダウンしている」と感じてしまうわけだが、“前置き”がしっかりとつくりこまれているからこそ、クライマックスが活きているのだ。
その観点から各エピソードをざっと振りかえってみよう。
「佐々木(仮)」(◆◆◆)は、怪しげな男とともに山林の心霊スポットを訪れると恐怖に襲われる。終盤で命の危険にさらされるので、一見すると、そこが恐怖の核心となる。だが、“前置き”の「いるはずもないところに人がいる」といった、さりげない怪異こそがエピソード全体のたたずまいを決めている。とはいえ、あの世のモノとおぼしき存在が出現する場面は、もう少し工夫の余地があったように思う。そこが惜しい。
「四角い跡」(◆◆◆◆)は、心霊番組のスタッフが廃墟となった家屋を訪れると悲劇にみまわれる。このエピソードもシリーズの持ち味が出るのは終盤だ。しかし、やはり中盤の怪現象のほうにエッセンスが詰まっている。いままで見たことのないような出来事——というわけではない。だが、現象のつくりこみやタイミングが絶妙で、そこから得られる恐怖感は、けっして凡庸なものではない。
「ヨリシロ」(◆◆◆◆)は、ゴミ拾いをしていると奇妙な欠片を発見。家に持ち帰ったことで怪現象に巻きこまれる。一般的に“幽霊”とおぼしきモノは、突然現われる。ところが本エピソードでは、(ややネタバレとなるが)ずっと画面に映りつづけている。最初は気づかない——いや、じつは気づいていたのだが、あとからその事実がわかるため、恐怖が倍増する。本来なら注目すべきポイントではないので、無意識のうちに恐怖の下地がつくられてしまうことになる。
「くりかえ死」(◆◆◆◆)は、肝試しに訪れた廃墟で恐怖の体験をする。大方の予想どおり、心霊現象が起こるのだが、異形のふるまいにちょっとしたひねりが加えられている。その「ひねり」は本題ではないため、観ている者は意識しない。だが、じつはその点こそが本エピソードの“核心”だったのだと、あとから気づく。その“読後感”が魅力だ。
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