[プロデューサー:小田泰之/編集・構成・演出:Team XXX、向悠一(「傀儡」「次はお前だ」)/音楽・音響効果:ボン、※-come- 「feint」/編集・MAスタジオ:スタジオミック/製作:アムモ98/2016年8月5日リリース]
傀儡(くぐつ)
本作の投稿者が記録した映像は、それほど恐怖感を催すものではない。もしかすると、合理的な説明がつけられるかもしれない、と自分自身を騙す余地はあるからだ。
しかし、心霊ビデオを観慣れている人でも、次のような事柄に思いをはせると、薄ら寒いものがこみあげてくる。すなわち——。
なんの変哲もないアパートの一室で奇妙なことが起こっていた。
この〈真実〉は、映像を安全圏から眺めるわれわれにとっても他人事ではない。まさに自分の住む部屋の隣でおなじような怪異が起こる……いや、すでに起こっているかもしれないのだ。
直接的な害はないかもしれないが、だからといって心の平穏は保てるだろうか? その自信はない。
タイジ
たしかに本作の現象は恐ろしい。なぜこのようなことが起こるのか。合理的な説明がつかないことに、われわれは本能的に拒絶反応を示す。
だが、ほんとうに恐ろしいのは、それだけだろうか?
じつは、一見ふつうの、生きた人間の持つ“心の闇”こそが、本作の恐怖の源泉かもしれない。
映像に映るのは“あの世のモノ”ではなく、まちがいなく「ふつうの人」のように見えるのに、ちょっとズレている。その「ズレ」が受け入れがたい。
怪現象は一瞬だけ映像に映りこむだけなので脆弱だが、生きた人間の存在感は確固たるもの。だから否定しがたい恐怖が生まれるわけだ。
近づく声、遠のく声
いわゆる心霊ビデオに記録される怪異は、視覚でとらえられるものが多い。そこに“音”が加わるケースもあるが、われわれが恐怖を覚えるのは異形のカタチや現われかたの異様さだ。
本作に記録される異変は“声”。「変な声が聞こえる」という現象は、当事者にはそれなりの恐怖かもしれないが、投稿映像を眺めているだけのわれわれは高みの見物——ふつうならそう思うところなのだが、本作はそう簡単に割り切れない。
“声”になにか邪悪な意志が宿っている。その意志は、観ているわれわれにもなんらかの力を及ぼす。そんな予感を持たされてしまうところに恐怖がある。
親近感
最初はよくある話だと思った。投稿者が“この世ならざるモノ”に触れたなら、その結果どうなるかは、心霊ビデオに永く親しんできた者なら細部まで予測できる。その意味で“親近感”を覚えるエピソードに思えた。
ところが実際は、意外なほうへ話が転がっていく。予測はまるっきりハズレ——というわけでもなく、大筋は正しい。けれど、少し違う。ちょっとの「違い」が一気に「親近感」を吹き飛ばす。小さな相違点に“闇”が入りこむ余地が生まれてしまっている。
次はお前だ
女の子たちが無邪気にとらえた心霊現象によって、とんでもない〈真実〉があきらかになった。
どういうことか?
心霊ビデオの類いに記録される怪現象は、本来きわめて希少なものだ。そう頻繁に起こるわけではなく、たまたまカメラを向けていたから奇妙な映像が撮れてしまった。そう考えるのが自然だと思っていた。
ところが、それは誤解だったのだ。
怪現象は希少ではなく、確固たる存在としてそこにあり、偶然ではなく必然的に、つまりいつでも好きなときに撮影が可能。
そんな意外な〈真実〉が本作であきらかになってしまった。
バラバラ
手にしたリンゴを放せば床に落ちる。「手に持つ」が先で「床に落ちる」は後。水は上には流れず、時計の針は逆には進まない。
われわれは脳のなかでそんなふうに「時間軸」とか「因果律」を認識している。
しかしながら、“あの世のモノ”とおぼしき存在は、その世界法則ともいうべきものが通用しない。本作が取り扱う奇妙な映像は、そんな〈真実〉をあぶり出している。
「法則」が成り立っていないのに、われわれは脳のなかで「法則」に従おうとする。無理にでも「因果律」をつくり、つじつま合わせをしようとする。お互いに独立した事象を関連づけようとする。「因果律」の崩壊した欠片が、投稿者の口からフッと漏れた言葉に混ざっていたりする。
そこに恐怖が生まれてしまう。
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